平成7年1月17日午前5時46分 阪神淡路地方をマグニチュード7.3の直下型地震が襲いました。
阪神淡路大震災です。
私たちは5日後の1月22日この目で現実を確かめるべく兵庫県に向かいました。
交通網が寸断する中、何とか甲子園周辺までたどり着く事ができました。
そこでは、建物がひどく破壊され、生活がめちゃくちゃになってしまった人々がおられました。
私は、自分が確かめたいという興味本位でここまで来ている事を恥ずかしく感じ、なかなかシャッターを押す事が出来なかった事を良く憶えています。
そんな中、「うちは水道が出るからどうぞ使って下さい」「この電話繋がるから自由に使って下さい」とか
人々の支えあう姿を目の当たりにして涙が出てきました。
その時思いました。私も出来る事をお手伝いさせて頂きたいと。
これから、復興のお手伝いをさせて頂いたお寺様神社様の一部を御紹介させて頂きます。
私共誠意と熱意を持って一生懸命取りくまさせて頂きました。
お亡くなりになった方々のご冥福をお祈りするとともに、復興のお手伝いを少しでもさせて頂く事が出来ました事に深く感謝申し上げたいと思います。
地震当時、豊原御住職は本山におられて震災を免れられました。
しかし、ご自宅におられた奥様そして2人の愛娘様を震災で失われました。
当時のことを伺う事自体いいものかどうか躊躇しているところ、「いいですよ、なんでも聞いて下さい。」とおっしゃって頂きました。
そう言えばあの時、震災直後は、本堂外陣に座って西の梁の上を見ますと、
ずうっと空が見えたんですよね。隙間が開いていて。
それと縁側の板と板の間の隙間が広がってました。11センチぐらいかな。
前の曳き屋さんでは出来なかったところも、小島さんに上手に直して頂きました。
昭和50年代からずっと本願寺の仕事を担当している人が5、6年前に本堂を見学させてほしいと言ってきましてね。
屋根裏にも入って見てもらったのですが、「非常に丁寧な修理をしてますな。」こういう風に言ってくれました。
小島さんの職人さんは、朝は仕事にかかる前、皆さん法被を着て本堂で座ってお参り頂きました。
昭和40年位からお勤めは朝8時からとなっていたのです。
ところが小島さんが8時から仕事をスタートしたいからということで、小島さんも一緒に7時半からお勤めをすることになりました。
以来、今でもずっと朝のお勤めは7時半にスタートしているんですよ。
しかし、ああやって毎朝ちゃんとお参りしてから仕事されるっていうのはね。
こちらも感心しました。
家族の事は、まあ、くよくよしていてもしょうがない。
いつまでもくよくよするのはやめようと。
それで、お葬式が済んだら気分を切り替えることにしました。
けれども今でも週に一回くらいは誰かの夢をみているんです。
私どもでは想像のつかないくらいつらい思いをされた豊原ご住職。
改めてお話を伺う事に対し快くお受け頂きました。
御心の広さと周囲の人達への深い愛情を感じずには居られませんでした。
この度は御協力頂きまして誠にありがとうございました。
これからも益々のご活躍を期待しております。
本堂もグシャグシャ、宮殿もバラバラ、屋根の形も無いくらいでした。
海の方に向かって倒れたんですが、境内地いっぱい、瓦の海。
つぶれた時は、絶対無理やと思いました。
茫然自失で、もう死んだ方が良かったとも思いました。
ここまで復興できるとは、とても思っていませんでした。
お檀家さんの方から、自分たちの祖先が今まで頑張って守ってきたお寺だから、自分たちが今やっておかないとだめだ、という方もみえて今やろうということになりました。
こんなありがたいことはないですよね…。
自分のところも大変なのに、それ以上にまたお寺にも寄付をさせられるんですから。
でも、うちの場合は、やろうやろう先祖がここまで守ってきてくれたから、自分たちが頑張ろう!っていう気持ちの方が多かった。瓦も一枚一枚はずしてね。
一年がかりで瓦礫の処理もしましたけれど、一日一日の積み重ねで今がある。
今は瓦礫処理、今は何をする、今与えられるもので、日々過ごしていく。
つまり 今を生きる、ということですね。その積み重ねだと思いますわ。
自然自然にこういう風な形になって、いい方向に結実したということですね。
みんなに助けていただいてね。
あとは、良い小島さんにお会いできたことですね。すごく無理を言うてると思います。
その無理難題を聞き入れて下さったっていうこと。それでやっぱりすごく立派なものが出来たと思うんですよね。それは小島さんも大分大変だったと思います。いろいろ言って申し訳なかったんですけどね。
でもすごく私たちは感謝しています。
再建された本堂(平成14年10月) まずは、棟梁が素晴らしかったということですよね。一生懸命やって下さって、感謝しています。
不満なんか何一つなかったです。
監督さんもよくやって下さったしね。
損得の計算ばっかりじゃなくってね、本当に素晴らしい人で。
うちの近所の方も、大工さんたちの食事を運んで下さって。みなさんに助けてもらって、本当によくしてもらいました。
とても優しいお人柄が印象的な片岡御冬御住職。
「とにかく目の前のことを一日一日を一生懸命がんばって生きて行く。
その積み重ねで自然自然に良い方向に結実しました。」というお言葉が心に残ります。
弊社といたしましても震災からの復興の一部を担える機会を与えて下さったことに対して感謝の気持ちでいっぱいです。
つらいつらい日々を乗り越え、皆が集まってくれて一歩づつ再興された様子を語られる現光寺さまに、とても温かな光に包まれるような感覚を憶えました。
私も一日一日を大切に一生懸命努力と勉強を続けて行く事を改めて心に誓わさせていただきました。
ご協力頂きまして誠にありがとうございました。
これからも、素敵な坊守様と共にますますお元気でお過ごし頂ければと思います。
震災後、本住吉神社の拝殿、神餞所の修復及び別宮社殿、稲荷社新築の工事をさせていただきました。
今回は阪神大震災その当時の直後の様子から語って頂きました。
建物も、ぐるりの塀もみなつぶれとった。パカッと屋根が開いとったんや。
それをみてこれは15年はあかんと思った。
復興できるとは思ってなかった。
曳き屋に来てもろて歪んだ建物をまっすぐにはしてもらったけど、まっすぐになっただけや。壁は落ちているし、困ったなと。
そんな時に、小島さんが来はったんや。
割に安かったんや。それで頼んだんや。
よそからも大手とかが来たけど、そこは自分とこで出来ひんさかい他所から大工を連れてくるっていうから断ったんや。
それと、地震に遭うたもんは、もう何もいらんと思うで。何にも無うてええと思た。箪笥も何も、物はいらん。みんなつぶれてしまうんやもん。あったってしゃあない。そういう気持ちになる。
地震を語り継ぐとかいうけどな。それもどうかな。
とにかく人間は忘れる動物やいう言葉がある。
思い出したら思い出すけど、普段は忘れとる。
そんな事をいつまででも思っておってもしょうがない、と。
次の事まで考えられへんけど、今日一日一日を一生懸命生きようと思てる。
非常に和やかに当時の様子を語って頂きました横田宮司様。
震災後、戦災後の復興を思い出し、あの当時拝殿を造るのに7年掛った。
今回は15年はアカンと思った。というフレーズが印象的でした。
思わぬ人からの援助もあって復興ができた本住吉様。
みんなに助けられてな。と感謝の気持ちは忘れずに、くよくよした気持ちはとっとと忘れてしまって、早く一歩を踏み出してと教えて頂いたようでした。
ご協力頂きまして、誠にありがとうございました。これからも益々のご活躍を期待しております。